2008/09/29

土派、あるいは大地派

これまでいろいろ設計を計画してきた中で、自分の志向にある偏りがあることを感じてきた。
土派。と、藤森さんなら呼ぶかもしれない。と命名してみる。
ほとんどが地下、あるいは半地下の場所をもっていて、建築を設計しているはずなのに何か大地を操作しているという感じがある。また洞窟的で過剰に閉鎖的。
ぼんやりと考えてみる。閉鎖的であったのは、これははっきりと言えるのだが、内部空間のイメージ、特に光のイメージを成立させるためであった。一度閉じた空間に穴をあけ、光をつくる。外部に興味がないと批判されればそれまでであるが、光によって獲得される自律的な空間(あるいは光のかたちそのもの)が建築の感動の根幹にあるという思いがあったのだろう。しかし外部をあきらめているようでは建築は始まっていかないし動き出しもしないだろう。まだまだ力不足である。
それから、素材や光、といった単体ではコンセプトにならなさそうなことが実は大事なんじゃないかと思っていた。素材なんていうものは建築のある種崇高で形而上的な「構成」というものからは対極の「末端」である。しかし建築の実際の体験の直接的なインターフェイスは視覚的にも触覚的にも「表面」である。
平面計画が苦手でやたらと断面で考えてしまう癖があるのはどうも地下とも関係していることがわかった。以前あるOBにランドスケープは彫刻に近いからやってみてはどうかといわれたが、確かに僕は大地を彫刻したいと思っているのかもしれない。
分厚い壁に興味があった。薄いぺらぺらな表面ではなく、見えていなくても感じる密実な物質の存在感を求めたい。物質感、重さ、肌理、質感、それらは彫刻を学んできた時にひたすら刻まれた身体感覚に派生しているのは間違いない。どうすることもできない物質の抵抗感や強さ、それに対する自分の意思の弱さを彫刻を通して感じていた。それがこれから先どのようなかたちで活かされていくのだろうか。
「大地(地球)の物質感を建築に取り込んでいこうとしている」のであれば、僕は彫刻と建築をつなぐ新たなストーリーを見つけつつあるのかもしれない。大地の建築、土派。もうちょっと温めてみたい。

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