2007/05/31

1年生第2課題「都市を読む椅子」プラン


バス停に椅子があるとよい。
歩道が狭くても乗り降りに邪魔にならず、老人にも座りやすい。
そんな椅子をデザインすることにした。

敷地は根津駅近くのバス停。
2脚の椅子が1つの背もたれを共有し、1つのガードレールになっている。簡潔にいえばそういう椅子である。
風景の一部となるような控えめさのなかに設計者としていろいろな仕掛けを施していきたい。歩車分離の鉄製フェンスを取り外し、代わりに今回制作する木製椅子がぴったりとおさまる予定だ。

車と人の接点であること、風景・状景として考えてみること、動作の誘導、そのあたりのことをキーとして進めている。

4 件のコメント:

Kubo さんのコメント...

5/30 エスキース2

車のスケール(ガードレール)と人間のスケール(ベンチ)の接点としての椅子
アアルトのマイレア邸で見た石>タイル>木>絨毯という素材の変化
つまり外部のスケールからより身体のスケールへ近づいてゆく、そのディティールのグラデーションをこの椅子に凝縮する。

関係性ー2脚の座面の距離のスタディ

風景を変える。風景の一部となる。
フェンスフェンスフェンスフェンス木フェンスフェンスフェンスフェンス

匿名 さんのコメント...

快適さや利便性、安全性という基本性能はイスそのものをデザインするときには、自ずと含まれてしまうので、それ以外の性能を考えてみてください。
もし特別な機能や性能がなくても、そのイスが社会のなかで、ひとつの基準になるものとして機能するということでもいいです。その場合、必要性というよりも必然性ということがテーマとなるでしょう。社会を計測するための基準という感じです。変化する社会に対して、冷静な視点を提示することで、社会の中における様々な価値観がどのくらい幅広くあるのかという基準ラインそのものということです。

Kubo さんのコメント...

椅子というものを通してどれだけ社会に新たな視点を提供できるか。

僕らが作っていくものは「機能を持って人々に使われるもの」であると同時に「表現を伝えるメディア」でもあるという点は、難しい問題です。

椅子である以上、快適さや利便性、安全性という性能は基本であり、それだけでも十分追求すべき事柄です。逆に、伝えたいことがあるゆえに快適でない椅子は美術作品のような存在に近い。

機能というものは最低条件であるけれども、それ自体ほんとうに自明なものなんだろうか?と問い直す地点を含め、想像力と倫理性を持って社会に新たな提案をしていけるかが建築家の役割だと考えます。

はたして信念を持った提案すべてが公共的倫理性を持ちうるのかどうかは哲学的問題ですが、その前にまず信念を持てるだけの問題意識が自分にあるかどうか。
課題の当初いろいろ考えてしまいました。

とはいえ今は、より良い椅子ができるよう、アイデアを搾り出し、力を尽くすまでですね。

エスキース、今後ともよろしくおねがいします。

匿名 さんのコメント...

「表現を伝えるメディア」というのは、さまざまな解釈があるのかもしれませんが、僕自身としては、「何かを積極的に伝える」というよりも、かたちあるものは結果的に、「何か伝えてしまうもの」と解釈してしまいます。そう言う意味で、「基準」という存在があると書きました。もし100年前を基準とすれば、現代は、100年前からこのくらい変化したという見方ができます。それがいいか悪いかは、各自の視点によって価値づけられるのでしょう。つまり、その「基準」自体は善し悪しを直接主張はしていないのですが、ある「基準」が提示されたことで、受け手は何かを感じることとなるという存在です。
もうひとつの問題としては、こんなにもイスが存在するのに、なぜ新たなものがつくられなければならないかということについてです。もし代用できるデザインやイスがあれば、それでいいのではないか?あるいは、それほど本当は必要ではないのではないか?というような疑問についてです。これは、発展してしまった国や都市が抱えている問題でもあります。そのような状況の中で、これから新たに存在するものはどういうものでなければならないかということも、イスのデザイン含まれてくることになると思います。こういう問題については、抽象化した理念を探すというよりも、「あの人にとっては、このイスは一体何になるんだろう?」とか、「この人は、このイスを一体どう使うのだろう?」と具体的に取り扱うことがいいと思います。匿名のみんなにというよりも、一人一人の個人へということなのだと思います。そういう意味で、一般化されすぎてしまった慣習としての機能というよりも、一歩つっこんだより具体的な機能ということを考えてみるのはいいと思います。