2007/04/30

軽井沢の山荘見学会


先日、大学の授業で吉村順三の「軽井沢の山荘」及び「脇田邸」、A・レーモンド作の「聖パウロカトリック教会」見学会に行って来た。

軽井沢の山荘は当時所員で図面を書いていた方に解説をしていただきながらの見学という贅沢なものだった。
外観は風雨にさらされて茶色というよりは白いなという印象だった。スケールもなかなかこじんまりしていて良い。やはり写真と実物とは見え方が違うことを実感。


暗さと精度

山荘は、結構暗い。施工も現代の感覚からすればそこまで良いとはいえない。だが、コンクリートにしても木の建具や壁にしても、家全体から、人の手によって作られたんだなあということが伝わってくる。山荘に入ってみて感じた「暗さ」は、そのこととなぜかぴったりとマッチするのである。すべてのものがぼんやりと見える。人間がつくるケンチクなのだ。多少ずれたりまがったりそんなことは当たり前だし気にならないのだ。
ふと、昔の建築がもっていた「暗さ」というのは建築の手作り感と密接にかかわっているような気がした。


現代の建築はとかく施工にきれいさを求める。普段生活していると全く考えないのだが、おそらく現代、特に日本の建築の施工精度は驚異的なものだと思う。人間の手で作られたものとは思えないくらいだ。

現代建築のうそっぽさはそこにある。つまり施工精度が上がるほど、材料が実体をもった素材から遊離して自分の手が知っている素材ではなくなるのだ。素材の実体は施工のほころびにしか現れない。

そして、精度を要求したのはおそらく「明るさ」である。
(「明るさ」は「衛生」の観念と、「衛生」は「文化的」という言葉と歴史的に関係しているだろう、というあたりは指摘にとどめておく。)
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」のなかで家の中の暗がりが失われていくことをしきりに嘆いていた。明るさは部屋の隅々までを分析可能なオブジェクトへと変えてしまった。そこから精度の希求がはじまるのだ。

「暗さ」はある意味では見なくていいものをぼんやりと隠してくれていた。
ミスのできない受験生のような現代建築に対して、すべてを包み込むような「暗さ」のある建築は、大人のような包容力を持っている。「暗さ」という切り口から、現代建築が失った何かを探ることができそうである。

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